スルーザワイヤー
前触れもなくその時は訪れ
ハートにヒビの入る音が聞こえた
悟られない為にあなたはずっと
ひたすら喋り続けていた
色の失せた炎を抱いて
風の歌が耳を裂いて
夜を耐える子供みたいに
色の失せた炎を抱いて
これ以上何かを奪われる
前にあなたときっと
遂げるでしょう
完璧な朝を迎えたら
パンにバターを塗って
採れたてのオレンジを絞って
読み終えた本から栞を抜いて
破れかけの五線譜をなぞって
誰かを想うような
仕草をみせることなく
身体と心を繫いでる
ワイヤーの軋むだけが聞こえてる
前触れもなくそのときは訪れ
前触れもなくそのときは訪れ
■
5月に見た夢の話。夢にここまで連続性があって、鮮明に憶えていることは殆ど無いので記しておこうと思う。
俺は旅行先の宿泊施設にいる。福岡かどこか、九州旅行だったのを覚えている。そこの宿泊施設は旅館やホテルのようなものではなく、合宿とか林間学校の行事とかで泊まるような、外観も内装も無機質で部屋が規則的に並んでいる、所謂あのタイプの宿泊施設だった。自分達が何人連れだったのか、面子に誰がいたのかは出てこなかったので覚えていないが、俺は友達のK(仮称)と二人で行動していた。部屋が一緒だったのかな。
泊まる部屋以外に談話室があり、そこならタバコも吸えるしお酒も置いてあるということで二人でそこへ向かった。長机とパイプ椅子が置いてあり自由に使って良さそうだったのでそこでくつろいでいると、見知らぬ女性グループ数人がその部屋に入ってきた。年齢は俺らと同じか少し年下くらいのようでかなり大きな声で会話をしている。メンバーの誰かがこっちに話しかけてきて一緒に酒を酌み交わすことになった。そのときの会話の詳細は憶えていないが、彼女たちは全員絵か何かをやっている美大生だということを言っていた。ひとしきり談笑を終えたところで、俺は持ってきたガンプラを見たいと言ってKを残して自分の部屋に先に戻った。
自室には5〜6個のガンプラの箱があって一つずつ開けて中身を確認していった。中には組み立て済みのガンプラが入っていて、その中にガンダムMk-Ⅱのキットがあったので、頭だけ取り外して家にあるMk-Ⅱに移植できないかとかそんなことを考えたりしながら各キットを注意深く観察していた。そうしているうちに、かなり時間が経ってしまったのでKのところに戻ろう思いその部屋を後にした。
Kのところに向かうと、彼は一緒にいた女グループの内の一人とベットに寝そべって談笑していた。その子は髪が水色のボブカットで、とてもよく笑う女の子だった。話が合うようで二人はとてもにこやかに何かを語っていた。俺がかなり気まずくなってそこを離れた。
そこでシーンが変わって、気づいたら談話室ではなくどこかの個室にいた。Kとさっきの女の子が向かい側にいて、俺の隣には別の女の子がいた。その子はKといた子よりも長くて赤みがかった茶髪を後ろで縛っていた。窓から差し込む月明かりが丁度逆光になってしまっていて、俺のいる位置からだと彼女の顔はよく見えなかった。俺以外の三人はみんなかなりお酒も進んでる様子で、意気揚々と声高に会話を繰り広げていて、俺とのテンション差が激しい。赤髪の女の子が俺がバツの悪さを感じていることを察したのか不意に身をこちらに乗り出しながら質問を投げかけてきた。
「星って夜になるとすごい光ってるじゃない?」
「うん?そうだね、あれって星が爆発したときの光が何光年も先の地球まで届いてるっていうよね。」
「そう。もし君が光るんだとしたら何色の光になりたい?」
「自分が星になるのだったらってこと?」
「違う違う。星になるとかじゃなくて、何色の光になりたいかって聞いてるの。」
「難しい質問するんだね。そうだなぁ、俺は色とか分からないくらい強い光になりたいなぁ。光量が強すぎて白んでるっていう意味では白になるのかな?これで答えになってる?」
俺がそう答えると、彼女は腕を組みわざとらしくウンウンと頷きながら、
「やっぱり。ギター弾く人ってさっき聞いてたけど、そういう人の答えだね!」
と言った。
「ギタリストっぽい答えってなんだよ。感性がって事?そういうものなのかな?」
と思ったのだが、他の三人が俺の答えにやけに満足そうな表情をしていたのでそれ以上の追求はしなかった。そこで会話も止まってしまったので
「俺も酒飲もうかな?まだある?」
と言って俺が残りの酒を物色しようとすると
「お酒ならそこのテーブルに、ビール入れたコップがあるよ」
と言いながら、彼女がテーブルに手を伸ばして酒を取ろうとしてくれた。よく見るとそれはコップにタバコの吸い殻が入っているだけの物だった。茶色いフィルターがビールの色に見えたのだろう。そのコップを手に取り、今にも口を付けようとする彼女を慌てて止めた。
「ちょっと飲み過ぎなんじゃない?大丈夫?」
ふらつく彼女の身体を支えながら尋ねたが、泥酔状態の彼女は言葉にならない返答をするだけだった。
その後ももう少しやりとりがあった気がするけど憶えているのはここまで。
彼女が隣にいる間、終始俺の太ももに手が当たっていて、その感触が起きた後もやけに生々しく残っていた。結局最後まで部屋の暗さと月明かりのせいで彼女の顔は見えなかったのを少し残念に思った。
中華料理と《忘れられた世界》
午後二時七分。
遅めの休憩に出る。僕は昼飯にしようと思うのだが、目星をつけている店もないので行きつけの中華料理店へ足を向けた。
そこでは四~五人の従業員が働いていて、ホールスタッフの数人しか顔を見たことはないがおそらくは全員が中国人でないかと思われる。
内装はいかにも中華風といった装いで、商品名やその説明が拙い日本語で書かれた張り紙が壁のいたる所に貼り付けられていて、それが粗雑な印象と同時に親しみやすさのようなものを演出している。
四川料理の一品ものから点心、日本人用にアレンジされた定食など、雑多なメニューの中から日替わりの定食を注文した。注文を受けた女性従業員は「カシコマリマシタ」と日本語で答えると、それを中国語に変換して厨房へと伝達した。
店内を見回してみた。ピークは去ったようだが、一人のサラリーマンと若い二人組の女性がそれぞれのテーブルに腰を掛けて各々が注文した料理と対峙していた。ここのメニューのほとんどが量と価格の釣り合いが取れておらず、客は皆、運ばれてきた料理を目の前にまずその量に怯み、僅かな緊張感と共に自分のオーダーが正しく通っていなかったのではないかというような不安な表情を一瞬浮かべた後にそれに口をつけ始めるのだ。
自分の料理が運ばれてくるまでの間、同居人に借りて読みかけにしている本の続きを読むことにした。
その本は終末後の世界で営まれる平坦な生活とその周りにある奇妙な太陽、人の住まなくなった場所(そこは《忘れられた世界》と称されていて、前文明の様々な遺物が棄てられている。)とそこに真実性を見出し緩やかに発狂していく人間、といったものをテーマにしたアメリカ作家の作品だ。
かつてこの作品はヒッピー思想に影響を与えアメリカの若者達を熱狂させ絶大な支持を得ていたと、この本を貸してくれた同居人は僕に説明をしてくれた。
淡々と詩情を湛えずに進んでいく文体とそこから喚起される無感情な世界は、僕のイメージの中で狂喜乱舞するヒッピー達とは少しも結びつかなかった。
もしかすると、あらゆるドラッグや音楽に疲れ果てたとき彼らはこの本を開くのかもしれない。
数ページだけ読んで、僕はすぐにその本をテーブルに置いた。
ふと、僕は自分がヒッピーになった姿を想像してみた。ウェーブがかった長髪と手入れの行き届いていない髭、服装は全身が隈なくカラフルでサイケデリックな様相を呈している。同じようなヒッピー連中と一心不乱に踊る僕。はたして、僕やその周りのヒッピー達は世界を忘れさる為に踊っているのだろうか?それとも自分たちが世界に忘れられる事に怯え、それに耐えられずに踊っているのだろうか?そんなことは今の僕には分からないし、ヒッピーになった自分を想像したところで、僕は別にウッドストックに行きたいとは思わなかった。
僕のテーブルに定食が置かれる。巨大な炒飯と麻婆豆腐、玉子のスープ、ザーサイ、杏仁豆腐が一つのお盆の上にひしめき合っている。それを見て僕は今日の昼飯はもう少し軽い食事で済ませるべきだったのだと悟った。相手を見て、相手の圧倒的な力の前に自分の敗戦を肌で感じ取ったボクサーもきっとこんな気持ちになんだと思う。だか僕は、このカードの対戦には慣れている分闘い方というものを心得ていた。
満腹感の波が押し寄せる前にメインの料理に片を付けたが、スープとザーサイには一口もつけることができずその試合は終了となった。
僕はヒッピーの僕を忘れて中華料理を食べる。僕がウッドストックには行かないと言えば、ヒッピーの僕は音と啓示を受け取りにさっさとでかけてしまい、僕を忘れ去ってしまうだろう。
そして、何もかもに疲れたときにこうして僕達はお互いの存在を想像の中で思い出したりするのだろう。
ソング・アバウト・アン・エンジェル
どちらの細胞がこの感覚を享受しているのか分からないくらいに他者との境界線が曖昧になる。そんな体験をしたとき、「触れる」という事、それは「痛みをもって知る」とそのまま言い換えれると思った。その痛みが生きている心地を与えてくれることもあれば、呼吸を困難にさせることもあるということも分かった。
「触れたい」「触れられたい」「手放したくない」「もう一度触れたい」それらの想いは僕たちの行動規範に結びついている、それなのにちっとも届かない。だから、僕たちは表現をせざるを得なくなるんだ。
表現の中でだったら、君を、あの人を、過去の僕たちを、抱きしめてあげることも指先でなぞることも、いっそ絞め殺してあげることもできる。
そうやって何かを救ったり殺したりしながら生きているんだと再確認することができた。僕が待っていてもいなくても季節は巡りまたやってくる。
まだ僕たちは渋谷の街を走り続けてるのかもしれない、あのときみたいに夜明け前の光に怯えたりはせずに。
ウィッグビーチ2019
「バンドのビデオを作ろう」
そう言って今年に入ってからずっと取り掛かっていた作品がようやく完成した。
居酒屋の席で「こんなテーマにしたい」だとか「こんな画があったら良いんじゃないか」等と酔いにまかせて各々が好き放題にアイデアを出すところから始まった。
どの曲で映像を作るかはもう決まっていたので、その曲が自分の中でどんな曲なのかという事を改めて考えた。
僕は基本的に自身の拙さや愚かさと言った類のものに向き合う事でしか表現ができない質なのだが、この曲は僕のそのルサンチマン的な手法の筆頭格とも言えそうな曲であった。
僕は自分自身のその、表現の中でしか感情を吐露したり、伝えたい事を述べたりができない高慢ちきな態度が憎たらしくて仕方がない。自分は音の威を借り「これは詩なのです。皆さん、くれぐれも文面だけの意味で捉えないでください。」と前置きをしなければ告白の一つもできない卑怯者なのだと考え出してしまうともう、その日は一日腑抜けた様な心持ちで終わってしまう。
つまり、僕にとって作曲は懺悔室を拵えることで、詩を書くとは罪を告白することなのだ。
最近はそんな独りよがりで音楽を気持ちよくなる為の道具として使うことしか能がない自分と決別したい、そんな事をいつも考えてる。(こうやって文に起こそうと思ったのも、その心変わりが冷めないうちにと思ってのことである。)
音楽は僕たちを救わないし殺しもしない、ただそこにあるものだからこそ素晴らしいとやっとそう思える様になった。
そんな経緯で「ギターで血を浴びる」「ギターを埋める」というシーンを作った。
監督と出演してくれた創士くん、ねのちゃん、ずっと一緒にやってくれてるメンバーの二人には本当に感謝してる。
後、あんな馬鹿みたいな曲作った3年前くらいの自分にも、一応。
海、また行きたいな。