野生のネギトロ

120円の皿からの逃避行

中華料理と《忘れられた世界》

午後二時七分。

遅めの休憩に出る。僕は昼飯にしようと思うのだが、目星をつけている店もないので行きつけの中華料理店へ足を向けた。

そこでは四~五人の従業員が働いていて、ホールスタッフの数人しか顔を見たことはないがおそらくは全員が中国人でないかと思われる。
内装はいかにも中華風といった装いで、商品名やその説明が拙い日本語で書かれた張り紙が壁のいたる所に貼り付けられていて、それが粗雑な印象と同時に親しみやすさのようなものを演出している。

四川料理の一品ものから点心、日本人用にアレンジされた定食など、雑多なメニューの中から日替わりの定食を注文した。注文を受けた女性従業員は「カシコマリマシタ」と日本語で答えると、それを中国語に変換して厨房へと伝達した。
店内を見回してみた。ピークは去ったようだが、一人のサラリーマンと若い二人組の女性がそれぞれのテーブルに腰を掛けて各々が注文した料理と対峙していた。ここのメニューのほとんどが量と価格の釣り合いが取れておらず、客は皆、運ばれてきた料理を目の前にまずその量に怯み、僅かな緊張感と共に自分のオーダーが正しく通っていなかったのではないかというような不安な表情を一瞬浮かべた後にそれに口をつけ始めるのだ。

自分の料理が運ばれてくるまでの間、同居人に借りて読みかけにしている本の続きを読むことにした。
その本は終末後の世界で営まれる平坦な生活とその周りにある奇妙な太陽、人の住まなくなった場所(そこは《忘れられた世界》と称されていて、前文明の様々な遺物が棄てられている。)とそこに真実性を見出し緩やかに発狂していく人間、といったものをテーマにしたアメリカ作家の作品だ。
かつてこの作品はヒッピー思想に影響を与えアメリカの若者達を熱狂させ絶大な支持を得ていたと、この本を貸してくれた同居人は僕に説明をしてくれた。
淡々と詩情を湛えずに進んでいく文体とそこから喚起される無感情な世界は、僕のイメージの中で狂喜乱舞するヒッピー達とは少しも結びつかなかった。
もしかすると、あらゆるドラッグや音楽に疲れ果てたとき彼らはこの本を開くのかもしれない。
数ページだけ読んで、僕はすぐにその本をテーブルに置いた。

ふと、僕は自分がヒッピーになった姿を想像してみた。ウェーブがかった長髪と手入れの行き届いていない髭、服装は全身が隈なくカラフルでサイケデリックな様相を呈している。同じようなヒッピー連中と一心不乱に踊る僕。はたして、僕やその周りのヒッピー達は世界を忘れさる為に踊っているのだろうか?それとも自分たちが世界に忘れられる事に怯え、それに耐えられずに踊っているのだろうか?そんなことは今の僕には分からないし、ヒッピーになった自分を想像したところで、僕は別にウッドストックに行きたいとは思わなかった。

僕のテーブルに定食が置かれる。巨大な炒飯と麻婆豆腐、玉子のスープ、ザーサイ、杏仁豆腐が一つのお盆の上にひしめき合っている。それを見て僕は今日の昼飯はもう少し軽い食事で済ませるべきだったのだと悟った。相手を見て、相手の圧倒的な力の前に自分の敗戦を肌で感じ取ったボクサーもきっとこんな気持ちになんだと思う。だか僕は、このカードの対戦には慣れている分闘い方というものを心得ていた。
満腹感の波が押し寄せる前にメインの料理に片を付けたが、スープとザーサイには一口もつけることができずその試合は終了となった。

僕はヒッピーの僕を忘れて中華料理を食べる。僕がウッドストックには行かないと言えば、ヒッピーの僕は音と啓示を受け取りにさっさとでかけてしまい、僕を忘れ去ってしまうだろう。

そして、何もかもに疲れたときにこうして僕達はお互いの存在を想像の中で思い出したりするのだろう。